ゲノムひろば2006 in 東京

主催:文部科学省科学研究費 特定領域研究ゲノム4領域

後援:東京都教育委員会

パネリスト

尾関 章(朝日新聞東京本社 科学医療部 部長)

東京生まれ。早大大学院修士課程修了(専門は物理)。1977年朝日新聞社に入り、科学部員、ヨーロッパ総局員、大阪本社科学医療部長などを経て2004 年から現職。現在、編集局長補佐も兼ねる。著書に『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)。「脱啓蒙」の科学報道をめざす。

尾関
松原 洋子(立命館大学 大学院先端総合学術研究科 教授)

1998年、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士課程修了(博士・学術)。
2003年より現職。専攻は、生物学史・医学史。著書に『優生学と人間社会』(講談社現代新書、共著)、『生命の臨界』(人文書院、共著)他。

松原
森 郁恵(名古屋大学 大学院理学研究科 教授)

1988年ワシントン大学博士課程修了、Ph.D. 1989年九州大学理学部助手、98年名古屋大学大学院理学研究科(生命理学専攻)助教授、2004年同教授。1996年〜1999年科学技術振興機構さきがけ研究21研究員兼任。1996年日本遺伝学会奨励賞受賞。本年猿橋賞受賞。

森
辻 省次(東京大学 大学院医学系研究科 教授)

医学部を卒業以来、一貫して神経内科の診療を基盤に神経難病の克服に向けた研究を展開。1980年代に大きく発展した分子遺伝学的研究手法を用いて、神経難病の病因の解明、そして、治療法の確立を目指している。

辻

進行

加藤 和人(京都大学 人文科学研究所/大学院生命科学研究科 助教授)

1961年京都生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。
ケンブリッジ大学研究員、JT生命誌研究館主任研究員を経て、2001年京都大学人文科学研究所助教授。2004年4月より大学院生命科学研究科兼任。専攻は現代科学史・科学コミュニケーション。HUGO(国際ヒトゲノム機構)倫理委員会委員。

加藤和人
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ゲノム談議

加藤 和人:

皆さん、こんにちは。本日は、「ゲノムひろば」にお越しいただきまして、ありがとうございます。

3連休なんですね。11月の3連休で、普通はいろんなところに行くところがあると思うんですけれども、その中で「ゲノムひろば」を選んでいただいて、お越しいただいたことに本当に感謝しております。

今年は2006年ですね。2006年というのは、2003年の春にヒトゲノムプロジェクトの完全解読が終わったという発表をしてから3年経ったわけです。そのプロジェクトが終わるよというようなころは、さまざまな形でメディアにもヒトゲノムというものが取り上げられて、ある意味、華やかな時代だったとは思うんですけれども、それに対して、3年後の今というのは、少しそれが静かになってきた。つまり、社会からゲノム研究というのは案外見えにくくなっているのかなという気もしないでもないわけです。

しかし、実は、ゲノム研究は非常にいろんな形で進んでおりまして、私は進行役ですけれども、スライドを1枚だけ、ちょっと映していただけますか。全部説明はしませんけれども、進んでいて、それを非常に大雑把に書いてあります。このスライドで「1」と書いたところは、ヒトゲノムの研究というのが、皆さんはヒトゲノムプロジェクトというのをたぶんご存じだと思うんですが、それはだれのゲノムを読んだんですかとよく言われるんですが、少数の人のゲノムが対象で、それを使って、ヒトのゲノムってこういうものですよというのを調べた。

ところが、そこから、それと平行してなんですけれども、今、本格的に始まっていることは、普通の人のゲノムがどんどん解析されている。具体的な例を、ほんの1つ、2つだけ言いますと、イギリスのものが有名なんですが、「UKバイオ・バンク」というもので、50万人のヒトのゲノムを調べよう。日本でも、30万人の方に参加していただく「オーダーメイド医療実現化プロジェクト」というのが始まっています。既にかなりの試料も集まっています。何をしたいかというと、つまり、そういうことをやって、ゲノムの個人差を調べて、それで、どの部分が病気になるということ、なりやすいということと関係しているかというようなことを調べたい。つまり、ヒトゲノムの多様性を調べる時代に入っているということです。

もう1つ、2番目のほうは、ヒトゲノムだけではなくて、今、300種類以上の生物のゲノムが既に解読を終了している。つまり、配列が決まったということです。わかったかどうかは別なんですが、解読はされた。その中には、さまざまな分野にかかわるものがある。農業に関係するもの、特に日本は発酵業とかが強いんですけれども、そういう分野、こうじ菌とかも「勢ぞろい」で上に展示が出ています。

それから、つい最近、先週はミツバチのゲノムが解読された。ミツバチというのは、社会性昆虫のゲノムが、あれは非常にゲノムレベルで遺伝的に決まっている行動なんですけれども、それがいったいどうやってゲノムに書き込まれているのかというのを研究したいなんていうことで、生物学的にも興味がある。本当にいろんなふうに広がっています。スライドはこれぐらいでけっこうです。
ですから、後からプレゼンもありますけれども、こういう状況の中で、ゲノム研究はいったいどうあるべきなのか。それから、社会とのかかわりをどう考えていくべきなのかという広い議論が、逆に今こそ必要なのではないかと私たちは思っています。そういうことを考えるために、さまざまな分野のゲストの方々をお迎えして、ざっくばらんに談議――よもやま話と僕は言うんですが――をやろうというのがこの「ゲノム談議」の目的です。

申し遅れましたが、私は進行役を務めさせていただきます、京都大学の人文科学研究所というのと、実は兼任しておりまして、もう1つは大学院の生命科学研究科というところにも研究室を持っているんですけど、加藤 和人と申します。どうぞよろしくお願いします。

パネリストの方々を紹介します。私に近いほうから、朝日新聞東京本社の科学医療部の部長さん、全体を見ていただいているんですけれども、尾関章さんです。それから、立命館大学の大学院の先端総合学術研究科教授の松原洋子さんです。よろしくお願いします。それから、名古屋大学大学院理学研究科教授の森郁恵さんです。よろしくお願いします。そして、東京大学大学院の医学系研究科教授の辻省次さんです。実は、辻さんは、私が入っているこのゲノム特定の応用ゲノムという1つのグルーブの領域長をしておられまして、いつもは私のボスなんです。それで、いつもは「先生」と言いますが、今日はここでは「辻さん」で行きますので、ざっくばらんな議論をするために、よろしくお願いします。以上の4人の方です。

さっきから控室で言っているんですけれども、パネリストの方々には、言いたくなったら、いつでも手を挙げて、何でも言ってくださいと言っていますので、よろしくお願いします。
もう一言、今日の進行について、最初にお話しをしたいと思います。一応は、よもやま話なんですけれども、全体を3つに分けるということだけは考えておりまして、最初の部分で、こちらの3人、尾関さんと、松原さんと、森さんに、短い、5分から10分のプレゼンをお願いしてあります。そこで、いきなりなんですけれども、ゲノム研究の社会の中におけるあり方とか、それから、最近のさまざまな基礎生物学とゲノム研究の関係とか、それから、社会への情報発信の問題とか、そういうことを議論します。

それに1時間ぐらいは使うと思うんですけれども、次に第2部として、辻さんに、ゲノム医学研究の立場から短いプレゼンテーションをしていただいて、そこでは、医学にちょっと特化した話をしようと。全体の話を先にして、後で医学のほうに入っていこうというふうに考えています。
それから、最後に、15分残るか、20分残るか、申し訳ない、あんまり自信がないんですが、とにかくちゃんと時間を取りまして、フロアからさまざまな意見なり質問なりをいただいて、皆さんと一緒に議論をするという時間を取りたいと思います。

それから、一点、お断りなんですけれども、そういうことで、このゲノム談議が、とにかくディスカッションすることが目的なので、ゲノムの科学に関する部分のプレゼンは、今日はあまりありません。私がさっきちょっと言いましたけれども、あまりありません。それに関しては、どうぞご了解ください。

それで、ぜひ8階の「そもそもゲノム」とか、「ゲノム研究勢ぞろい」のところを、既に見ていただいた方もおられると思いますし、これから見る時間もございますので、そちらをご覧になっていただきたいと思います。

前置きが少し長くなりましたが、それでは、第1部ということで、話を始めたいと思います。

尾関さんから、短いプレゼンをお願いしたいのですが。一言だけ、尾関さんは、大学院で物理学の修士の研究をなされてから、朝日新聞に入社されて、主として科学報道のところでずっとお仕事をされてきた方で、メディアの立場のご発言ということを今日はお願いしています。どうぞよろしくお願いします。

尾関 章:

はい、ご紹介にあずかりました尾関と申します。今日の私のタイトルは、こういうふうにしてみました。「リベラル」と書くときに、ちょっと悩んじゃって。 いかにも朝日新聞の記者が選びそうな言葉だなと言われるのではないかと(笑)。 なぜ「リベラル」かは、後で、ディスカッションの中で見えてくるかなと思います。

まず、ゲノムということで申し上げたいのは、DNA不在の10年、あるいは、ゲノム不在の10年ということです。1990年代は、世界的にゲノムの解読が進んだんですが、日本の科学報道では「ゲノム不在」だったのではないか。メディアの反省の弁として、このスライドをつくりました。

実をいうと、90年代、ゲノムが世界的にみて科学の大きなテーマであったにもかかわらず、日本の生命科学報道というか、医療報道というか、どうもあまりそちらに関心が向いていなかった。 90年代といいますと、国内では脳死下の臓器移植再開に向けた動きがありまして、どうもそちらのほうに、われわれの科学メディアのリソースが向かっていたという感じがあり、私は率直に反省の気持ちを持っています。

私自身、80年代後半から90年初めにかけて、日本初の刑事捜査でのDNA鑑定なんかかがあったときに解説記事を書いたり、DNAを大量にコピーして遺伝子診断に使う「PCR」という技術が日本癌学会で話題になったときに記事にしたり、あるいは、遺伝子治療をアメリカの国立保健研究所(NIH)が始めた頃、日本に来た研究者にインタビューしたりしたんですが、ただそれを、その後10年間、系統的にはやってこなかったんじゃないのかなと。

その間に、このDNAのめぐるさまざまなこと、今申し上げた遺伝子診断、遺伝子治療、あるいはDNA鑑定といったものが、もう日常的に社会に浸透したと。 たとえば、北朝鮮の拉致問題でも、DNA鑑定ということが新聞記事になる。そういうところにつながっていくまでの間に、やはり科学ジャーナリズムとして、もう少しきちんと、こういう技術について議論しておくべきではなかったかという感じがあります。

だからこそ、これからはやはり、科学ジャーナリズムというのは、つねに次の10年を見越して、いろんなことを議論していかなきゃいけないんじゃないかなと。 このことをまず強調しておきたいと思います。

ということで、もうすでに半分の時間が過ぎちゃいましたので、ちょっと飛びますが、今日、私が一番申し上げたいなと思うのは、この絵なんです。

80年代末から90年初めにかけて、ゲノムの話とか遺伝子の話とかを取材したときに、医学部の先生からこういう図を見せてもらい、病気というのは、遺伝要因と環境要因があるんだよという話を聞きました。たとえば、重い遺伝病、ハンチントン病ですとか、そういうものは、この図の一番左側です。遺伝要因が100%。それから、これは病気じゃないけれど、交通事故で亡くなったというのは、一番右側で、ほとんど環境要因だと。

ところが、世の中に多い糖尿病だとか、高血圧だとか、心臓病だとかは、ちょうどこの真ん中あたりなんだよと。だんだん遺伝子レベルの研究が進み、病気を起こしやすくする遺伝要因がわかってきたからですね。取材の中で、こういうことをだいぶ聞きました。つまり、遺伝要因と環境要因が1か0じゃなくて、それらの交ざり合いが連続的に変わっているんだということ。これはすごく大事なことかなと思います。

医療については、そういうことはけっこう言われているんですけれども、きょうは、教育の話をしようと思うんです。たとえば、こういうことが言えるんじゃないでしょうか。私が子どものころは、まだ社会主義というのが元気のいい時代でしたし、旧ソ連にあったルイセンコ学説の影響とかが残っていたように思えるんです。若い方は聞いたこともないということかもしれませんけれども、人間は環境によってすべてが決まってくるんだというような考え方が、けっこうありました。

そのときに、遺伝要因を言うことは、ほとんどタブーだったような気がするんです。それが、80年代から90年代にかけて、遺伝子の研究がいろいろ出てきたときに、遺伝要因というのが、けっこうやっぱり大事だねとわかってきた。今はちょうど、その遺伝要因のほうが、どちらかというと勢いづいている。 何かそんな気がするわけです。

その極限に、ひょっとして優生思想みたいなものがあるのかもしれません。

われわれは結局、つまりこの図でいえば、この真ん中あたりのところで生きているわけですけれども、その遺伝要因というのをどういうふうに認識して、どういうふうにそれを扱っていくのか、が大きな問題になってくる。

それぞれ、みんな遺伝要因を持っている。 だけれども、やっぱりそれですべてが決まるような、そういう世の中にはしたくないわけです。やはり、それぞれの遺伝要因を、いわばポジティブにとらえるものの、環境要因とどううまく組み合わせていくかということが、たぶん医療だけじゃなくて、いろんなところで議論される時代に入ったんじゃないかなというのが、今日の私の問題提起です。

こういう問題は、たぶん今年から来年、再来年ぐらいにかけて、憲法論議が盛んになってくるでしょうけれども、そういう議論のときにも視野に入れるべき重要なテーマではないかと思います。憲法論議では、たとえば生命倫理の条項を入れようという提案もなされていますけれども、これを入れるべきなのか入れるべきではないのか、そういうことも考えていかなきゃいけないと考えます。

最後のところで「DNAは思想にかかわる」と、私は書いたんですけれども、ここでDNAと言ったのは、必ずしもDNAそのものではありません。新しい生命科学の技術をどう取り込んでいくか、あるいはむしろ、あまり取り込まずに自然のままに生きていくかというのは、技術を使って自分たちの選択の幅を広げるか、それともエコロジーをとるか、というかなり思想的な座標軸の中で考えていかざるをえないんじゃないかなということを、私は考えています。これについては、また後の議論の中でと思います。

加藤:

ありがとうございました。マスコミの立場らしいポイントを突いたご発言で、1つは、不在の10年というのがあって、次の10年をどう考えたらいいのかという問題提起と、それから、われわれは科学のところにいると、科学としてのゲノム研究というのを考えがちなんですけれども、やっぱり社会の中で考えたときに、非常に大きい問題であるということ。憲法とか、思想とか、技術か自然かというような、そのへんの提起をいただいて、これを後で議論したいと思います。

それでは、次に、松原洋子さん、お願いします。松原さんのご専門は、生物学史、生物医学史ということで、そういう立場で今日はご発言いただきます。よろしくお願いします。

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松原 洋子:

松原です。「談議」という古風な言葉に触発されて、報告のタイトルを「生物学の“タニマチ”をつくる」としました。「タニマチ」というのは、お相撲さんの応援をするような旦那衆のことで、昔、大阪の谷町というところに、お相撲さんならただで診てあげるというお医者さんがいたことから来ているそうです。

聴衆の皆さんには生き物好き、あるいは、生物学の研究者の方が多いだろうと考えて、そういう方々にある思いをストレートに伝えようと思ってここに来ました。

普段は、生命科学の社会的な側面の話をすることが多いのですが、今回は尾関さんにおまかせして、私はすごく素朴な話をします。科学を見る目を、報告の副題にあるように「有用性から非日常性へ」転換しようということです。自然科学というのは、そもそも非日常的な方法です。いろいろなテクニックだとか、概念とか、そういったものを使って、日常の、すなわち現実の見え方を変えてくれるものだと思っています。

つまり、われわれの世界観を変えたり、新しくしたり、そういう目の覚めるような体験をさせてくれるのが自然科学だと思っています。新しい世界観というのは、芸術によっても、あるいは人文学によっても拓かれるものですが、自然科学の面白いところは、その世界観が常に自然によって試されるということです。そのことによって、思い込みが木っ端微塵に粉砕されるという経験ができる。自然の中の小さきものとしての人間を思い知らされる。しかも、ある種の快感をもって、思い知らせてもらえる。人間は自然界の一部としての生き物に過ぎないという解放感――これは「解放感」だと思うのですが――人間というものが人間の世界に閉じない、広がりを持っている、そういうことを思い知らせてくれるというところがあると思います。

「社会の中の科学」という認識、また、科学研究費を拠出する納税者への説明責任という見地から、この「ゲノムひろば」も位置づけられている部分があると思います。社会に対する説明は、必要です。ただその場合、職業人としての科学者が、業務としての科学を説明する、みたいなことになりがちなのではないかと思うんです。そうすると、そこで強調されるのは、有用性、どんな役に立つのか、どういうふうに使えるのか、というところだと思います。

例えば、サイエンスとしてのゲノム学の革新性よりも、ゲノム医学の将来性のほうに注目させるといった傾向はないでしょうか。もちろんゲノム医学には将来性があると思いますが、ゲノムにかかわる研究の総体の中で、役に立つ、有用であるという部分だけ非常に誇張されて伝えられる傾向がある。さらに、サイエンスだから、夢を振りまく。夢の粉をかけるんです。有用性を語る場合、本来は、すごく現実的でクールな側面を持たなくてはいけないはずなんだけど、夢も振りまくから、結局、そういった科学への過剰な期待をあおることになりがちです。

しかし、有用性というのは日常性の延長に過ぎないんです。それは、科学ではなくて技術の領域。これはこれで大事です。しかし、そもそもサイエンスというのは、非日常に連れていってくれる、そして日常の見方を変えてくれる、そういうものではないかという期待が、私にはあります。

ゲノム学を社会に向けて説明するとき、「役に立つ生命科学」以上に、「かなりヤバイ生物学」として提示できないか。「かなりヤバイ」というのは、英語でいうと「クール(cool)」、つまりカッコイイ。「やばい」くらいドキドキする、ワクワクする、そういう局面を見せられないだろうか、ということです。

例えば、ワトソンとクリックの2重らせんモデルが50年以上前に出たときに、「これはかなりヤバイよ」という感じを、科学者たちは持ったんじゃないですか。それから、われわれも、その意味がわかるにつれて、「これはすごい」と思いはじめた。日常性をスパッと切断するような、生物学のそういう側面を科学者の皆さんには、社会に向けてもっともっと強調してほしいと思っています。

それで、このかなりヤバイ生物学のなかで、情報インフラとしてのゲノム、基礎的な方法論としてのゲノム学というのが出現しているのではないかと、半可通ながら思うわけです。ゲノム学の系譜を見ると、古典的な遺伝学からはじまり、分子遺伝学が20世紀後半に急成長して、さらにヒトゲノムプロジェクトが1990年代以降進められた。それで、ヒトだけでなくて、さまざまな種の生物も含めた研究が並行して行われる「ゲノム学」ができていった。

ゲノム学は系譜をたどれば遺伝学由来ですが、現在では遺伝学という枠が外れて、ヒトも含めた生物学研究の共通言語になりつつあるのではないかと思うんです。しかし、「ゲノム」というのはどうしても遺伝すなわちDNAというイメージが強くて、遺伝学というのを引きずってしまう感じがあります。

DNAというと、生きている体の中で活動している要素としてより、世代間に伝達される遺伝、しかも、似たものが伝わる現象としての遺伝と結びつけられてしまう。そういう状況で「DNAは生命の設計図」という例えが使われると、ゲノム学を誤読させるのではないかと危惧します。古典的なheredityとゲノムという言葉をくっつけたときに、遺伝子と形質が因果的に一対一対応しているというような見方をもっと固定化するような恐れがあるのではないか。つまり、決定論的な遺伝観とか、それから、線形的、すごく複雑なのではなくて、線形的な反応系の集積としての生命観、分子に還元していくような要素還元主義とか、それから、設計図がもう決定的で、そこからありとあらゆる現象が起こっているというような、本質主義的な生命観が強化されるのではないかという心配があります。遺伝決定論という言い方がされることもありますが、そういうふうになってしまう。

しかし、ゲノム学で拓かれてきたのは、むしろ決定論を強化する方向ではなくて、むしろ生体の複雑なネットワークを顕在化させることだった。もちろん、複雑なカスケードの存在なんてことは、生物学者は先刻ご承知なんですが、それがなおさら見えてきた。例えば、RNA干渉とか、non-coding RNAといった事象によって、DNAの塩基配列を起点とする線形的な反応系に還元できるかのような、古典的な分子生物学の発想とはちがうものが、すごく前面に出てきたのではないかと思います。

ゲノム学は遺伝学だけじゃなくて、発生学とか、系統学などの方法にも浸透しています。モデル生物間の比較、あるいは、モデル生物とヒトの比較のように、種を超え、さらに、既存の専門分野の壁も超えていく。例えば、植物学と医学の壁が、ゲノム学という共通言語で超えられる、そういった契機がある。だから、ゲノム学は生物をどんどん要素に還元し、生物学の中で「遺伝」概念を突出させるというよりは、生物学の総合に向かっているのではないかという期待を持っているんです。生物学って、古い言葉に見えますけれども、20世紀以降細分化の一途をたどってきた「生物科学」は、生物学というものに戻るんじゃないかというふうに思うわけです。

ゲノム医学やゲノム疫学は、私たちにとってすごく重要な、関心を持たざるを得ないものです。しかし、そうした日常生活での有用性から離れて、例えば、ゲノム学のモデル生物、シロイヌナズナとか、クラミドモナスとか、酵母とか、もちろん線虫とか、そういったものとの比較対照にもなり得る生き物としての「ヒト」という見方で「人」を一度眺め返してみる。そうするとゲノム学と人間の関係が違って見えてくるのではないかと思います。

例えば、「バイオ・バンク」。これは、データを提供する当人の治療とは別に、ヒトのゲノムの情報インフラをつくるというような話になるわけですが、自分の治療に直接関係ない「バイオ・バンク」にコミットする気になるかどうかというときに、やっぱり医学とか医療という枠組みではなくて、ほかの生物とつながるヒトというようなところから、もう一回捉え返すということをすると、違った意義というのを見つけられるようになってくるんじゃないかと思うわけです。

私が面白いなと思うのは、ゲノム考古学という考え方なんですが、世界遺産よりも「考古学」できる人体の面白さ。人体の中に進化の歴史が内包されていて、人とはまったく違う生き物であるモデル生物たちと、どこかで比較の契機が持てる。それって、私はとてもすごいことなんじゃないかな、と思うんです。今生きている、その生き物の中にそういった契機があるということがです。

余談ですけれども、私が妊娠したときに、わきの下が腫れてきて、これは何だと思ったら、実は副乳が発達してきたせいだった。哺乳類が胎児のときにはわきの下から下腹部にかけて乳腺があるわけですが、ヒトが産まれるときには胸の部分だけが発達して乳頭も1対(2つ)しか残りません。副乳というのは、それが痕跡的に残ったものです。私の場合、乳頭は残っていませんでしたが、妊娠して乳腺が発達してきたら、副乳も発達して痕跡器官の存在が目に見えてきた。それは、とっても面白いことで、ライブ感覚で生き物としての自分を、しかも、進化の広がりの中にいる自分というものを体感した、そういった契機だったんです。

こんなことが面白いなんて、オタクな人間しか味わえないセンスなのかもしれないけれども、医学とは別の文脈で、つまり役に立つ・立たないとは別に、自分が生き物として日常気づかない世界の中でも存在していることに気づくこと。そのめざましさ…「役に立つ」よりも「面白い」ゲノムの世界を、「ゲノム学の社会的な理解」といったときにもっと追求できないものかな、と思っています。以上です。

加藤:

どうもありがとうございます。個人的感想を一言。研究費とプレッシャーなんかでいっぱいになっているゲノムの研究者に、今の10分のお話を聞かせてあげたいなみたいな、ここにどれぐらい班員がいるのかな、みたいなのが、まず個人的感想です。視野が広くて、見方を変えてくれるのが科学なんじゃないかという、有用性ばかりではないのではないか。それから、実態とイメージのずれという話がありました。つまり、ゲノムというと、遺伝子決定論になっているんじゃないか。でも、実際は、実態はそうなのではない。研究の世界は非常にダイナミックなゲノムの姿を見せてくれているなどについてお話しいただきました。ありがとうございます。

では、3人目の森さんにプレゼンテーションをお願いしたいと思います。毎年「ゲノム談議」では、われわれのこのゲノム特定のグループ、「ゲノムひろば」を主催しているグループから2人ということで、向こう側2人はゲノム研究者なんですが、今日は実は違うんです。森さんは、このゲノム特定研究には入っていない方で、線虫の研究をずっとやっておられて、ゲノムを横目で見ながら生命現象を追いかけておられる方です。今年の5月に、線虫を使った神経系の研究で、猿橋賞という、すぐれた女性科学者に与えられる賞を受賞されています。私はぜひ、そういうちょっと違うところにおられる科学者の視点を、ここへ今日取り込んでみたいと思ってお願いした次第でして、好きなことを言ってください。お願いします。

森 郁恵:

加藤さん、ご紹介、ありがとうございました。私は自然に物をしゃべるんですけど、それが何か物議をかもす発言になるというので有名みたいで、たぶん加藤さんはハラハラドキドキしていらっしゃると思います。私としては普通にしゃべっているつもりなんですが、普通、自分の考えを言っているつもりなんですが、べつに他意はないというか、そういうことでご勘弁ください。何か言い出すかもしれませんけれども、よろしくお願いします。

このスライドで出ておりますように、線虫の研究をしております。それも、行動という、動物行動で、われわれも含めて、行動はどういう神経系、脳の中の神経回路の働きによって、どうプログラムされているか。あるいは、学習をするということも、学習ができる能力を獲得しているわけです。進化の過程で、人間の場合とか、線虫もそうなんですけれども、そういうことを研究している者です。

線虫というのは、体が、これは体長が1ミリです。これは大人ですが、土の中に生きております。それで、細胞系譜という、受精卵から細胞が分裂していくというのが全部決まっている唯一の多細胞生物だと思います。これは、最終的には959個の細胞から、これは雌雄同体なんですけれども、ということは、精子と卵子を自分でつくり、自家受精をいたしますが、たまに精子しかつくらないオスがありますので、いわゆる古典的な遺伝学、交配実験をすることができます。

20度で飼育すると、3日半、まあ4日ですね、4日のサイクルでどんどん遺伝学が進むということで、遺伝学に非常に適しております。それで、われわれがやっている神経ですけれども、959個の細胞のうち、302個が神経細胞です。その神経回路というのがわかっております。それは、電子顕微鏡の解析によりまして、どの神経とどの神経がシナプス結合を取っているのではないであろうかという、一応それが本当に働いているかどうは別といたしまして、そういう情報がわかっているということです。

1998年に、多細胞生物としては初めて全ゲノム、10の8乗ベースペアあるんですが、それが解読されて、皆さんご存じの雑誌の『サイエンス』の表紙を飾ったという、ちょっと歴史的な動物であります。それで、線虫のちょっと宣伝みたいなことになるんですが、C. エレガンス(線虫)の研究者は功績がありますよ、ということです。その細胞系譜を決めた人たちが、2002年のノーベル医学・生理学賞を3名受賞いたしておりますし、今年、ついこの間、3週間ぐらい前に発表がありましたけれども、松原さんのお話にもあったように、RNA干渉ということを発見し、それが使えるということを決めたのも、もともと線虫の研究者で、その2名がノーベル賞を受賞しております。

ということで、その頭のところにいろんな温度や臭いや味物質、高い浸透圧とかを感じる感覚器官がありまして、それに対して線虫はある行動を起こします。これは、とにかく、ちょっと売りといっていつもしゃべっていることなんですが、個体レベルです。実験者をだますほど頭は良くないので、だから、ある刺激に対して、非常にコントロールされた実験室という状況では、ある反応を起こしますので、個体レベルで突然変異体を取ることができます。ある応答をしないという突然変異体です。例えば、ある行動が、どういう神経回路を通っているのかなということも、1つ1つの神経細胞の回路として理解することも可能です。これは、302個しかないということから、たぶんこれをするのはC. エレガンス以外には模型はないと思います。

その1つ1つの神経細胞ですが、例えば、こういうことです。これは、オワンクラゲから取った発光タンパク質GFPで、感覚神経細胞をすべて光らせていますが、感覚神経細胞は34個とか36個あるんですけれども、それがこういうふうに見ることもできる。いわゆる遺伝子です。ある行動がとれなくなったときに、ある臭い物質に行かなくなった線虫がいるとします。それは、どの遺伝子に損傷が起きたから、その臭い物質をもう感じることができなくなったかと。ということで、いわゆる遺伝子のクローニングというのができますので、それでどういう遺伝子がだめになるとある行動がとれなくなるか、そういうこともわかる。

これを、順遺伝学的、フォワード・ジェネティカルなアプローチといいますが、突然変異体を取って遺伝子に到達し、遺伝子は遺伝子として、それがある種の酵素であれば生化学的な実験もできますし、例えば、そのタンパク質に何か結合するタンパク質を、また生化学な実験によって取ってくることもできますし、いろいろできるということです。

あとは、もうこれはゲノムプロジェクトのまったくの恩恵に預かっているんですけれども、ゲノムを全部サーチしてみますと、遺伝子が人間ではこういう働きをしているとか、マウスではこういう働きをしているという遺伝子がわかるわけです。それをノックアウトするということができます。ノックアウトは、うちの研究室でも、1カ月あればノックアウトってできますので、例えば、ある神経系で行きますと、何とかチャンネルとか、カルシウム・チャンネルをコードしている遺伝子をノックアウトするということができます。

そうしたときに、われわれが、例えば注目している行動に変化が起こるかどうか。そのチャンネルはどの神経細胞で働くことで、通常の行動が起こっているかということも、いろいろな個体レベル、回路レベル、細胞レベル、分子レベル、これを、こっち側はフォワード・ジェネティカルなアプローチと申しているんですが、要するに、リバース・ジェネティカルなアプローチでいろんな解析ができるということです。

そういう流れの中で、私たちの研究室でやっていることは、温度に対する応答行動です。それは温度問題走性というふうに呼ばれているんですけれども、これも、例えばC. エレガンスの場合は、15度から25度の温度の範囲でしか、要するに、子孫を残すということができません。生息することができません。これは、線虫にとっては非常に低温なんですけれども、例えば、15度で、実験室では餌として大腸菌を食べていますが、大腸菌を与えて、普通に飼った線虫を温度勾配、これは、真ん中、ここからここまでが、いわゆる9センチぐらいのペトリ皿です。そこに寒天が薄くひいてありまして、この白いところは線虫が這ったトラッキング、トラックの跡です。

そうやって這った跡なんですが、こういうレコード盤というか、あまり均一ではないですが、真ん中が17度ぐらいで、ヘリは25度という、こういう放射状の温度勾配を、この寒天培地の上につけておきます。15度で大腸菌を普通に食べさせておいた線虫をここに置きます。これは、ここの上には餌はありません。ただ寒天培地があって、線虫が動ける状況であるということです。こういう温度勾配だけがついているところに置きますと、30分、50分、60分後には、この低いほうに行きます。

この線虫を取りまして、例えば、20度で、また餌である大腸菌を食べさせて、4時間ぐらい飼育した後に、この温度勾配がついている寒天培地の上に置きますと、今度はこのへんです。このへんでこういう、ある温度、おそらく20度だと思われる温度にとどまろうとして、ぐるぐる、ぐるぐる回るような行動をとります。

また、この線虫を、また普通の大腸菌のある飼育培地に移して、また4時間ぐらい、例えば25度、これは線虫にとっては非常に高温なんですけれども、その温度で数時間飼育した後に、またここに置きますと、今度は25度に行きます。このヘリのところに行く。こういう非常に可塑性を持っていて、この温度走性、温度に対する応答性ですが、これを行うためには、飼育されている温度をある種記憶していなければいけないということです。われわれとしては、温度をどう感じているかというモデルにもなるし、記憶や学習のモデルシステムになるという考えのもとに、いろいろ研究をしているということです。

それで、こういう研究の流れの中で、ゲノムが解説されたことがどう影響したかということで、加藤さんのほうから一言と言われているんですけれども、基本的には、研究が早く進むようになったというのが正直なところです。遺伝子のクローニングに、このゲノム情報がないとき、先ほどの一番最初に、このへんですね。例えば、突然変異、先ほどのスライドでお見せしたように、飼育温度に移動するという、温度勾配上で飼育温度に行くという行動ができなくなった線虫が、突然変異体として取れた場合に、どの遺伝子に損傷があるのかということから、その遺伝子をクローニングするということをやるんです。

ゲノム情報がない時代は、やっぱり2年とか3年かかっておりましたが、今は、だいたい2カ月です。それは、SNP(スニップ)です。それは、ヒューマンというか、ヒトではそれしかやれないような状況だと思うんですけれども、1世代が4日ということも利用いたしまして、要するに、イギリスから取られたC.エレガンスの株と、具体的には、ハワイで取られたC. エレガンスの株において、ATGC、塩基配列のちょっとした違いがありますので、そのシングル・ヌクレオチド・ポリモルフィズム(Single Nucleotide Polymorphism)、SNP(スニップ)と言うんですけれども、それを利用すると、ぱぱぱっと仕事が進みまして、1カ月、2カ月で終わってしまうということです。

ゲノムに対しては、そういうような感覚しかないということで……。

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加藤:

言っていただいていいんですよ。どんな感じで見ておられるのか。

森:

あと、感覚は、今というんじゃないんですが、ちょっと前は、例えば、ゲノムワイドな何とかかんとかの研究とか、網羅的何とか何とか解析とか、そういうふうなタイトルで研究費の申請をする人が多く、そういうタイトルに研究費が下りていると、やっぱり何かそういう印象があります。

先ほどのお2人の方のお話を聞いていて、すごく感じたんですけれども、ゲノムとは全然関係ないんですが、要するに、サイエンスの自然科学には、やっぱり流行があると思います。流行というか、はやりの研究ということなんですが、最近、すごく感じるのは、論文を通すときにすごく感じるんですが、論文は通らないとその人の業績にならなくて、今すごく法人化されて、大学の先生たちはみんな死にそうに忙しいんですけれども、お金も取らなきゃ、要するに、はっきり申し上げて、研究費を取ってこなければ、ほとんどもうクビの状況になっています。まあ国立大学ではないですけれども。

そこで、流行というのは、私が最近すごく感じているのは、2つあるというふうに思っていて、1つは、本当に、かなり純粋な感じでずーっとサイエンスの歴史があり、その中で、例えば、DNAの構造はわかったほうがいいんじゃないかなという時代がずーっと来て、それで、ワトソンとクリックが明らかにしたと。例えば、ライナス・ポーリングなんかは、あのときは3重螺旋モデルなんかも出しています。ロザリンド・フランクリンなんかは、結晶解析をして、まだだ、まだだ、という感じでモデルを出さない時代もずっとあったとか、そういうものがあった。そういう時代もあるし、あとは、いわゆるメディアとかジャーナルですよね。トップ・ジャーナルといわれている、ちょっとそれは具体的なジャーナルの名前を挙げるのは控えますけれども、いわゆるトップ・ジャーナルのエディトリアル・オフィスと、それから、メディアがはやりをつくると思います。それはもう明らかに、いわゆる基礎研究の人たちは感じていると思います。

だから、こういう研究をしていると、トップ・ジャーナルに載りやすいということです。でもそれは、どうも自然に純粋に研究を進めていって、次はここがわかりたい、次はここを明らかにしたいという流れとは違って、そこのあるところをピックしたような形で流行はつくられる。それをやっていないと……。それでやっていると、こんなヘボイ実験で穴だらけだよというのでも、トップ・ジャーナルに出ます。それは明らかです。

加藤:

言っちゃいましょうか、言っちゃいましょうか。再生医学は、今ちょっとそういうところがありますよね。

森:

ある時代は、アルツハイマーのときもそうでした。アルツハイマー何たらというと、もうお金が取れて、『ネイチャー』『サイエンス』に出ていましたね。明らかにそういうのがありました。そういう流れの中で、やっぱりゲノム何とかというとお金が取りやすくて、それは感覚じゃなくて、明らかに事実としてあったと思います。ということは感じます。でも、まあ、だから何だということもないんですけれども、わが道を行くだけなので。

加藤:

言わせてしまいましたね、私が(笑)。

森:

ということですので、以上です。

加藤:

ありがとうございました。ちょっと、まず森さんに、もうディスカッションに入っていきますが、忘れないうちに振っておきたいのですが、いろんなことを言っていただいた、今、森さんは、実は猿橋賞を取られたときに、インタビューに答えて、「私は、自分のところで育てている若手に対して、『砂漠の真ん中に置かれても平気で生きていける研究者にならないとだめよ』って言っている」というのが、かなりメディアに出たりしているんですけれども、そのへんが、でも、ゲノムを使っておられるわけです。

森:

普通な、ツールという感じですよね。ツールとして。

加藤:

どういう感覚なの? つまり、ゲノムのコミュニティが提供してくれる、一生懸命やってくれる情報は、やっぱり当然いるわけで……。

森:

もうとてもありがたいです。

加藤:

その人たちと喧嘩するわけじゃなくて。

森:

いや、全然。

加藤:

やっぱりちゃんと仲良くして、でも、もしかして砂漠の中に放ったらかしにすると、もしかしてそういう人とインターネットでつながった形で研究するというか、何というのかな……。

森:

だから、その……。

加藤:

研究者ってどうあったらいいのみたいな、特に若手で研究者になりたいという人が今回おられるんですけれども。

森:

だから、流行の話なんですけれど、ある種、つくられた流行というのはあると思っていて、それは、実は私は完全に否定はしていないんです。それによって進むものがあるので、大型予算を投入するということは、ある場合においては必要であると。だけど、研究者の中にも、若い人は、ある種、それをもう完全に否定したがるとか、非常に極端というか、純粋な気持ちからそうなると思うんですけれども……。

「砂漠の真ん中」という意味がちょっと違って、当然コミュニティがありますよね。コミュニティの中でちゃんとやるのは当然なんです。でも、コミュニティの中でも、その人としてわかってもらう。例えば、「森研究室のだれだれさん」と呼ばれるんではなくて、「何々さん」、「何々君」というふうに呼ばれる人になりましょう、ということです。

だから、例えば、総説とかありますよね。書いてくださいということで、「何々君やる?」って言って、やらなければ私は忙しいので断るよということになりますよね。そのときに、「何々君、今は私の名前を入れて、私もそれをチェックしますよ」ということにします。でも、その何々君、君が何々君というので、ある何かワールドが見えてきたときには、私の名前は取りますから、それまでは私の名前を入れておきなさいという感覚です。そういう意味の砂漠です。

加藤:

ちょっと言っちゃうと、イギリス的、ヨーロッパ的感覚でもあるかなと思います。そうでもないですか。

森:

と思いますね。うちは、具体的には今言えないんですけれども、けっこうMRCとか、行きたい人が多いです。ポスドクでそこへ行きたいというのが多い。

加藤:

ぽろっと言わせてください。僕も非常にわかる感覚なんです。自分もいたので。ちょっとそれは、でも、横に置きます。

話を議論に持っていきます。森さん、ありがとうございました。現象をとことん注目していく科学とゲノムの関係というのが少し見えたのではないかと思うんですが。それで、ずっと3人の話をお聞きして、じゃ、どこから始めようかなと、必死で考えながら聞いていたんですけれども、まあ今日は尾関さんもおられるし、松原さんが、ああいう実態とイメージのずれみたいな話を言っていただいたので、もういきなり、じゃ、尾関さん、今の話を聞いて、尾関さんでも松原さんでもかまわないんですけど、不在の10年が、DNAが不在だったんです。でも、これからの10年ないしは今、今年、あるいは数年を考えないといけないんです。何を話題にしたらいいんでしょうね。

尾関:

ちょっといいですか。まず、私、松原さんのお話に大変励まされたんです。実を言うと、私は科学記者としてずっと20数年やってきたんですけれど、有用性への関心は少ないほうで、日本の科学ジャーナリズムにあって、どちらかというと「非主流」ともいえる立場で取材してきたんです。

実は、さっき楽屋で、森さんがちょっと言われていたことがあります。新聞記者って、取材に来ると必ず、「で、これ何の役に立つんですか」と聞くんですよって(笑)。まさに、そこはわが意を得たりであって、そういう有用性とは違う視点を持った科学ジャーナリズムがやっぱり必要であろうと、私は痛切に思っているところです。これからは、だんだんとそうなっていくでありましょう。

それから、もう1つ、松原さんのお考えの中で励まされたというか、まさにそこなんだよというのが、(スライドの)2番で、結局これに尽きるんですけれども、遺伝子至上主義というか、遺伝決定論というか、何かそういうようなところに今、世の中がぶれかかっているところがあるということです。

つまり、私が子どものころは、どちらかというと環境決定論であり、お父さんがどうであれ、お母さんがどうであれ、君が努力すればオリンピックの選手にだってなれるんだよ、というようなことを言われたりしていた時代なんです。 それが今、どっちかというと、競馬馬の話が人間の話にまでなっちゃうような、そんなところもあるわけだけど、実はこれは複雑であって、遺伝要因と環境要因がどうかかわっているのかを、これから調べていくというのが1つのサイエンスだろうと思います。

だから、遺伝要因を、あるひとりの人のベースの1つとみたときに、その人がどういうふうにハピネスをつかんでいくかを考えていくこと、これはもうちょっと広く、社会学とか教育学とかにまで広がっていくかもしれないけれど、世の中の議論が、そういうようなところにまで行ったらいいんじゃないのか。今、加藤さんのおっしゃられたご質問には、そういうかたちで答えになるのかなと。

加藤:

はい、ありがとうございます。松原さん、いかがですか。

松原:

はい、何からお話ししようかなと思うんですが、まず、私は普段あまり今日みたいな話はしないんですが、思い切ってさせてもらったのは、やっぱり科学者の皆さんはお疲れじゃないかというか、「俺はこんなことをやるために科学者になったんじゃないよ」と思っている人が多いのではないかと。

私は、いわゆる文系ですけれども、こちらにもそういった波が来て、なんでほとんどの時間をマネージメントに使わなくちゃいけないのかというような、そういうことになっております。だからこそ、なんでこんなことをやるはめになったのかと思いつつも、そもそも初心は何だったのかということを自戒も込めて思い出そう、ということなんです。

さきほど森さんがおっしゃったように、流行がつくられるというのは、本当によくわかることで、結局、科学研究がこれだけ大掛かりなものになっていきますと、もうかなりいろんなレベルの政策、政治が入ってくる。その中でプロの科学者は、それを何とかやり過ごしながら、自分の志を何とかやりくりしてつなげていこうとしているんだと思います。どんな「業界」でも大人の社会では、どこにでもある程度そういうことはある。

ただ、それでも科学というものは、ほとんどアートというんですか、先ほど「非日常性」と言いましたけれども、現実に、リアルな世界に定位しながら、違った世界を開いていく、そういうものであるはずだ、あってほしいという思いがあります。例えば、遺伝という概念や「遺伝子」の定義なんてものすごく変わってきているわけです。メンデルはもちろん、ワトソン、クリックの時代と比べてすら変わっている。その一方で、世間の人たちは、とりあえず天気のあいさつみたいに、「血液型は何?」と聞くし、B型だから相性がどうの、今日の運勢はどうのと言っているわけですね。それがDNA云々とまで行かないにしても、そういった人たちとゲノム研究の間には、すごくギャップがある。

だから、一般の人たちはどのように考えているのかを知ろうとする。そうした現状分析をするというのも大事なんだけど、ただ、それは一種のマーケティング・リサーチみたいに、消費者の動向を探る、といった構えになってしまっている。それでわかった一般人の傾向に合わせて、ゲノム研究の成果をわかりやすく提示する、というのでもないだろうという気がして。とりあえず普通の人にはわけがわからないけど、そのままいきなりぶつけるのを、もっと思い切ってなさったらいかがかと。ジャーナリズムも、そうなさったらどうでしょう。

ちょっと前に、小川洋子さんの『博士の愛した数式』という小説がベストセラーになりました。この小説には、ヒューマンな、心に染みるいろいろな要素があるわけですが、整数論の概念も織り込まれていて、例えば、「友愛数」って、そんなものがあったのかと。なぜか不思議な数の世界そのものへの驚きというんですか、うわーっと思う感じというのが、やっぱりあのベストセラーの背景にはあると思うんです。

あらかじめマーケティング・リサーチ的にパブリックはどう思っているのかみたいな調査をしたって、友愛数に対する一般人の反応なんて、引っかからないんですよ。ですから、有用性とか、みんなが何を考えているか、とかあまり気にせずに、ちょっと初心を思い出して、「ここがすごく面白い!」と伝えたいことを、科学者にはどんどんストレートにぶつけていってほしいなと思うのです。

加藤:

「ゲノムひろば」はそれでやっているつもりですけどね。1つにはね。

尾関:

今の「非日常性」という言葉は大変いい言葉で、さっき、松原さんの話の中に、有用性が夢と絡まってきたときに大変困ったことになるというような話があったけれど、私もまったくそう思っています。 どうも世の中が科学ジャーナリズムに期待しているものが、「子どもたちに夢とロマンを」で、そういう言葉がもう常套句のようにあるんです。私は、科学医療部長という立場から、社内でも、夢とロマンの科学ジャーナリズムから脱したいということを言い続けてきているわけです。

実をいうと、メディアの中での「非日常性」は、イコール「夢」、ニアリー・イコール「夢とロマン」みたいになっているんだけれども、実は、非日常性とか、松原さんがおっしゃったような「知的な驚き」とか、そういうのは必ずしも夢とロマンじゃないんですよね。 夢とロマンというと、なにか子どもたちが星空を見上げて、「ああ、遠い宇宙があるんだね」と言うことを短絡的に思い浮かべるけれども、非日常性とか知的興奮というのは、実はもうちょっと大人のものだろうと思うんです。

加藤:

そうですね。あるとき、怖いですね。

尾関:

怖いんです。その怖さみたいなものを含めて、われわれはその驚きをちゃんと伝えていくというようなことが必要でしょう。 安易な「夢とロマン」主義が実用性とまた結びついたときは、もう最悪です。それを何とか克服していかなきゃいけないと、私は思います。

加藤:

今、科学コミュニケーションはブームなんですけど、私はもう尾関さんの話がぴったり当てはまると思う。夢とロマンを子どもたちに与えるために、科学コミュニケーションというんですが、僕はあれは嫌いです。もちろん、そのことは重要なのですが、それ以外のこともいろいろあると思っているんです。どうぞ、辻さん。

辻 省次:

僕はかなりマスコミに批判的な立場でもあるんですけれども、今、科学者の持っている純粋な知的興奮とか、そういったものの大切さというのが話題になっていると思うんですけど、それと、それは一面怖い面もある。それは確かかもしれないんだけど、僕はやっぱり素直に考えていて、そういう知的興奮といいますか、そういったところの神髄を、マスコミの方々は十分伝えられていないんじゃないかと僕は思うんです。それも大事なことで、つまり、常にハスに構えて、裏なり危険な面にばっかり目が行っていて、純粋にそういうところというのはもっともっときちっと伝えてほしいと私は思うわけなんですけれども、いかがでしょうか。

尾関:

それはまったく一面そのとおりなんですけれど、ちょっと言葉を整理していかないといけないと思うんです。科学にかかわる報道では、なにかの研究を、表面的なところでの有用性をとらえてもち上げることがあり、また、表面的なところで社会的害悪の部分を批判することがあるんですけれども、知的興奮のところで驚きとかなにかを伝えることもできるはずなんですね。 もうちょっと下部構造というのかな、あまり表面的なところではなくて、科学そのものがもっている楽しさとか、怖さとかもあると思います。

たとえば、遺伝子、DNA、ゲノムなんていうのは――「知る権利」「知らずにいる権利」「知られずにいる権利」という権利論になるとちょっと社会的な意味を持ちすぎるけれども――やはり知ることの怖さみたいなところがあるんですね。自分のもっているDNAはどういうものなんだろうという怖さ。夢とロマンじゃない怖さというのは、何かそういうレベルのことなんですね。 科学というのはやっぱりそういう、人間がなにかを知ることによって、ある意味で怖い深淵のようなものを見てしまうというレベルの話である。 そのことを、私はさっき申し上げたということです。

有用性か、社会的に批判される害悪という次元よりもう少し深いところでも、科学ジャーナリズムはやっていかなきゃいけないんじゃないかというふうに私は思っています。

森:

ちょっとコメントなんですけど、その「知る権利」、「知らないでいる権利」ということで、名古屋大学理学部に入ってくる1年生対象、それは文化系、理科系、関係なく、セミナーというのをやっているんです。15人ぐらいで、例えば、今問題の捏造問題だとか、何か科学のDNA鑑定とか、そういうことを知識として教えながら考えさせるというようなことをやっていて、それで、結局、親子関係がどうだとか、ありますね。犯罪で、髪の毛1本からDNAがどうだこうだということから、結局、個人情報の問題とかいろんなことになってきて、それで、15人ぐらいいる学生ですね、ちょうど前期を教えていたときに、あなたは自分の遺伝子情報を知りたいですか、知りたくないですかという、1人ずつディスカッションという感じで話したときに、やっぱり半々ぐらいでした。

だから、知りたいという人もいたんだけれども、知りたくないという意見は、なんで知りたくないかといっても、ちゃんと意見を、その彼女、彼なりに言うんです。それは、ほかの人の意見を聞いても、けっこう崩れないんです。かなり強い、ちゃんと意思を持った意見としてあって、もう両方サイドあって。でも、そういうことを考えることが教育だと思っているので、答えはないんですけど、問題提起としてはそういうことをやっています。

私としては、教える立場としては、いろんな意見があるなということです。もう全然、要するに、前期ですから、高校生からすぐに来ているんです。高校3年生を卒業して、4月、すぐに始まったときに、もうそういうような状況だというのがあります。それは本当のことです。

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加藤:

ちょうど辻さんの医学のプレゼンにつながっていくような話題になってきたので、お願いできますでしょうか。やはり特に医学を中心とする個人の遺伝情報の問題というのは、また違う次元の問題もあると思いますので、そちらの議論に行って、今まで出てきた議論も受けつつ、次の議論を続けていきたいと思います。辻さん、お願いします。

辻:

それでは、私のほうから話題提供ということで、医学の研究がゲノム研究の発展によって、今現在どういう状況にあるかということを、概略をご説明したいと思います。ゲノム上の対応性といいますか、塩基配列の違いで、どうして病気が起こるかということですけれども、1つの例として、ちょっとまれな病気ですけれども、ゴーシェ病というのを紹介させていただきます。

これは遺伝性疾患なんですけれども、体の中で古くなった細胞を脾臓とかそういったところで壊して、どんどんターン・オーバーしているわけです。そこの細胞膜の表面にあります、糖脂質がたくさんあるんですが、それを壊す酵素がありまして、それはグルコセレブロサイドというんです。これを壊す酵素、グルコセレブロシラーゼというのが遺伝的に欠損する。そのために、この酵素活性がないために、この物質が蓄積する。それが、肝臓とか脾臓とか、あるいは骨髄とか、こういった場所に蓄積するという病気なんです。

日本人ではまれですけど、ユダヤ人の方々では非常に頻度の高い病気です。細胞の中には、こういうふうにグルコセレブロサイドをたくさん溜め込んでしまった細胞が、こういうふうに蓄積してくるわけです。それによって具合が悪くなるということです。これは非常に古くなりましたけど、これは僕が20年ほど前にアメリカに行ったときにやった仕事なので、まだ当時はPCRがない時代でございますし、今のシークエンサー(sequencer)もない時代ですので、非常に原始的な方法ですけれども、クローニングをしてきちっとやってみると、こういう場所に1塩基の違いがある。TからCに変わることで、ロイシンがプロリンに変わる。それによって、このタンパクは非常に不安定なタンパクになってしまうということで、酵素活性が出せないという病気なわけです。

この病気は、僕がいたNIHのラスコ・ブレディという研究者は、この酵素欠損を発見した人ですけれども、ヒトの胎盤から原因となっている酵素、グルコセレブロサイデスを生成して、これを頸静脈的に投与することによって治療ができるということを言い始めました。いろいろ難しいハードルはあったんですが、それを何とか乗り越えられて、最近では、組み換えDNA技術による酵素の生産も行われている。これは日本でも保険適用を受けています。実際に治療をしてみると、ちょっと見にくいかもしれませんけど、おなかが、脾臓とか肝臓がこういうふうに腫れているのが、数カ月というオーダーでこういうふうにだんだん小さくなってきますし、貧血があるわけですけど、これがぐーっと良くなってきて、ヘモグロビン・レベルなんかも普通に良くなってくるということで、目覚ましい効果が上がっている。こういうふうに研究医療は進んできているということなわけです。

先ほども尾関さんのほうから、スライドに似たようなものがありました。同じようなものですけれども、病気の成り立ちを考えると、いわゆる遺伝性の病気というのが1つの極にありますし、それから、こちらのほうには、後発性というか、極端なことを言ったら外傷とか、遺伝には無関係な病気もありますけれども、生活習慣病といわれているような多くの病気は、おそらくは複数の遺伝子要因と、それから、何らかの環境要因、生活習慣などが加わって、病気が起こってくるというふうに考えられるわけです。

それから、この間に、遺伝子には異常があるんだけど、必ずしも病気になるわけじゃなくて、一部の人しかならないということもあって、このへんも体質の違いというのがあるわけですが、こういう連続的なスペクトルになっている。これまで、このグループは相当研究は進んで、遺伝子はわかってきたけれども、こちらのほうはまだ十分ではない。今、こちらのほうがターゲットになってきているということになります。

ゲノムには、ご存じのように、ヒトの場合ですと、30億塩基対あるというふうにされていますので、だいたい地球上の人口に匹敵するといいますか、同じオーダーと考えたらいいわけです。ですから、その中の、さっき言ったように、ロイシンからプロリンに変わるような1塩基の違いということは、30億人の中で1人の犯人を捜し出さなければいけないということになりますから、これは容易じゃないということになります。では、それをどう捜すかということで、いかに捜すかというところがこの20年ぐらいの間、研究が進んできたところだというふうに思います。

それで、どういうふうに捜していくかということで、地球上に50~60億いるんでしょうか、捜していくということになるわけです。そうすると、こういうふうにして、だんだんズームアップしていくわけです。こうやって、今、技術はどんどん進んでいますから、こういうことができるわけです。

ずーっと見ていくと、皇居が見えてきて、こうなってくる。最近では、見る力というのはだいぶ良くなっていますから、丸ビルが見えてくると、こういうふうに行けるわけです。ずーっと行くと、どこまで行けるかということですけど、車が停まっているのが見えると、このぐらいでしょうかね。実際に、グーグル(Google)でこれを見てみますと、このへんなんです。まだグーグルの解像力というのは十分ではないと。人の顔は見えないんです。

本当は、こういうのを見たいわけです。これは今朝、丸ビルの前で撮った写真なんですけど、勝手に撮ったので、もし写っている方がいらしたらごめんなさい(笑)。こういうふうに、1人1人の顔が見たいというわけですけど、今のゲノム解析の技術というのは、まだそこまでは行っていないんです。1人1人見ながら世界中を捜すというわけにはいかないので、やっぱりこのレベルなんです。ここに現在のゲノム解析の方法論的な限界というのはまだあるということがあると思います。

どうやっているかということですけれども、こうやって見てもよくわからないですが、こういうふうに区が分かれてくると多少見やすくなります。それからこうやって見ていて、こういうふうに色分けしてある場所を見るとわかりやすくなる。結局、今やっていることは、こういうある場所を代表するようなゲノム領域のパターンというのを見ていって、どこに犯人がいるかというのを決めていくと、そういう作業をしているから、まだちょっともどかしいんです。若干隔靴掻痒の感じもないわけじゃない。

どういうことかというと、このゲノム上に、例えば、赤で示している、ここのところに、病気のなりやすさに関係する何らかの変化が起こったとします。そうすると、その周辺というのはいろんな多型のパターンがあるわけですけど、これが世代を経てくると、だんだん組み換えという現象が起こって、精子、卵子がつくられるときに組み換えが起こりますから、だんだん入り交じってくるんです。だけど、ある時代を経ても、ある領域というのはずっとここの場所を保っているわけです。つまり、ここにあるこの変化というのは、その周辺に多型パターン、顔の違いがいろいろあるんですが、それは常について回りますから、結局は、こういう目印を使って捜せば、病気の人の集団というのはこのパターンを持っている人が多いということがわかるわけです。

だから、ある領域を代表するようなパターンを使って、それを今は30万、50万、60万という、そういう数の目印を捜せば、だいたいこの1つの代表的なこの区画を見ることができる。そうすると、病気の人は特定のあるパターンを持っているかどうかという、その割合を見ていけば、そこにある真犯人が潜んでいるところがわかるかもしれないと、そういうことなんです。

多型はいろいろございますけれども、今研究でよく使われているのは、1塩基が入れ替わるような多型で、現在はDNAチップという方法を使って、50万とか60万とかという数の種類の多型を、1回の実験で、1週間もかからずに、数日の実験で全部パターンが出せるという時代になっています。

患者さんのほうの解析する検体は、こういう家族性に起こってくる、黒で示したところが病気の方ですけれど、同じ兄弟の中に病気の人が2人ほどいらっしゃいます。こういうふうな家系の方々にご協力いただくという場合もありますし、あるいは、糖尿病の集団の方で1,000人、それから、糖尿病でない方1,000人、お願いして、こういうパターンを見るという方法もございます。それは病気によってさまざまな種類がございますけれども、そういうことをやりまして、いわゆる大規模ゲノム解析というのをするわけです。

そうすると、どこかに病気に関係する変化があるかもしれないと、わかるわけです。それを検証する必要があります。検証はいろんな方法があります。日本人でわかったものを白人でやってみたら、同じことがわかるかどうかという、人種を変えて異なるデータ設定で検証するということもあるかもしれません。あるいは、その1塩基の変化が本当に病気に関係するかどうかというのを、酵素の活性とか、発現の量とか、そういう生物学的な機能解析をすることによって検証することもできます。

それができれば、今度は臨床的な意義というものを検証していく必要があるわけで、病気の診断なり、あるいは、病体に何パーセント寄与しているか、どこに寄与しているか、それをいろんな方法で検証するわけです。そうすることによって初めて治療法の研究ができる。つまり、ここが、例えば糖代謝の、ここに影響があるから、そこをターゲットにした分子標的治療を行おうということで、治療法の研究ができる。最終的には、診療への導入ということになります。

ですから、ゲノム研究というのは、さきほど、自分のゲノム情報を全部知りたいですか、どうですか、という議論もありましたけれども、実際はこういうふうに非常に一部なんです。ここのところがわかるだけであって、手がかりがわかるだけです。だから、大規模ゲノム研究をしても、すべてがたちどころに全部わかるということではなくて、あくまで手がかりがわかるわけで、その後に今度は別の生物系なり別の医学系の研究者の方々にバトンタッチして、さまざまな研究が行われて初めて診療への導入ができる。

ですから、まだまだ非常にプリミティブな段階にあることも事実ですし、それから、また、ここであっても、協力していただける方の寄与が大きいんです。1,000人あるいは5,000人という、協力いただける方の数によって、実は検出力というのは大きくなってきますから、中途半端な研究はしても仕方がないという部分もあるわけです。

これは夢物語ですけれども、こういうヒトのゲノムの多様性が、病気の関連や、お薬の効き具合、副作用の出方、そういったことに関係してくることがわかりますから、診断精度が向上しますし、疾患の機序がよくわかりますし、治療法の開発研究ができるし、また、お薬のより良い選択ができるということで、こういうのは個別化医療といいますけれども、そういった時代が来てほしいと思うわけですが、まだまだ研究を進めないと、本当の意味でこれは実現しないということになります。

これは最後のスライドですけれども、東大病院では、ホームページを見ていただきますと、ここに「臨床ゲノム診療部」というのがあります。こういう診療部にゲノムを使っているのは、たぶん東大だけだと思うんです。ほかの大学は「遺伝子診療部」というんですけれども、やっぱりゲノムのというのは全部調べて、その情報を使って本当のいい医療に持っていきたいということがありまして、先を目指して、ゲノム診療部ということで、将来は、血液を採ってDNAチップで調べれば、病気のなりやすさ、治療法などがたちどころにわかるというのが夢ということで、私の話題提供としておきます。

加藤:

はい、ありがとうございました。

さあ、どうしようかという感じなんですけど、だんだん話していくと、研究そのものが大きな世界に見えてきて、問題が多岐にわたると思います。1つ、辻さんに、確認として私からお聞きしたんですけれども、ゴーシェ病の話を最初にされました。最後に、大規模解析からロード・マップということで、ずーっと長いですという話をされました。ちょっと単純化していうと、結局、今わかってきていることというか、今見えている風景というのは、僕は別のところで使った言葉があるんですけれども、少数の非常にはっきりとわかる、さっきから出ている図の左端に当たるような部分と、多数の、真ん中あたりの非常に多因子で働いて、しかも、それの寄与を調べるには、あれだけたくさんのステップがいるという、両方が見えてきている。

後者については、とにかくわからない。まだまだ先が必要だという話です。ところが、前者に関しては、やはりわかるわけです。高校生が大学に入ってきて、半分は嫌だというのは、前者のイメージで嫌だと言っているのではないかと思うんです。でも、その前者は、実際にあるんです。だから、自分がそれを持っているかもしれないわけです。それに対して、先生はどう……。

辻:

ちょっと僕は違う立場なんで、(違う)見方をするんですけれども、ゴーシェ病といったのは、いわゆる先天代謝異常症といわれているフィールドなんです。これは、アメリカなんかに行くとそうですけれども、やっぱり病気の原因を究明して、治療法を確立するという意味では、プロトタイプになるような病気なんです。現代医学の非常に根本的なところって、そこに根差しているところがあって、つまり、病気というのは、やっぱり究極的にはケミカルのリアクションで記述できるはずですし、そういう原理を実現する、そういう最もプロトタイプ的な病気というふうに考えられて、こういう考え方というのは現代医学の基礎にあると思うんです。

ですから、右のほうに示した多遺伝子性疾患とか、生活習慣病も、僕は基本的には同じだと思うんです。つまり、1つ1つがやっぱり分子のレベルで語ることができて、それが総体として病気を記述できるという時代になるんだと思うんです。だから、こっちは遺伝で、何か非常に自分があったらどうだとかっていう、そういう見方もあるけど、医学の立場から見ると、実はすべてはあそこに根差していて、病気というものを分子のレベルで記述する。それが、今できているのは先天代謝異常という一部の疾患ですけれども、それがこちらのほうにも広がってこなきゃいけない。とにかく、それが実現することによって、治療に向けての研究というのができる。そこが開けるということが大きいんだと思うんです。

加藤:

もう一言私から言いますと、でも、たいていの場合、わかることが先で、治療法がずーっと後から来るということがあると思うので、だから、辻さんの言い方からすると、要するに、わかる、わかる、と言って、わかるけど治りませんというのが広がっていく感じがします。ちょっと3人の方にも振りたいんですけれども、つまり、「知る権利」「知らない権利」みたいなところの議論にも必要になってくると思うんです。一言、辻さんも言っていただいてから、3人に振ります。

辻:

常に医学の歴史というのは、いわゆる病気があって、なかなかそれが治療できないということがあって、それをいかに克服するかということでずっと積み上げてきているわけですから、ある時点、ある時点での状況としては、治療法のない病気というのはやっぱりあるんです。だけど、それは必ずそういったものが発展して、治療法に行くということであって、ただし、ある時点で切ってみると、診断できるけれども治療法は十分ないという時代はあるわけだし、そこで、いろんな問題とか葛藤が起こるわけです。ただ、僕は必ずそういうふうにして発展していくものだというふうに思うんだけど。

加藤:

なるほど。どうですか。尾関さんでも、松原さんでもけっこうですけれども、結局、今みたいな話をどう社会で話題にするか。

尾関:

大変難しい問題ですが、今日、私がタイトルで「リベラル」という言葉をなんで使ったかというのは、1つはそこにあります。こういう決定的な遺伝子診断のようなものができると、追い詰められる人が出てくる可能性があるわけです。そのときに、やはりそういう人たちをどう守っていくかということ。このことを考えられる世の中でなければならないだろうということが1つあります。その前段として、さっきの、まず「知らないでいる権利」というのがどこまで認められるかどうかという問題も1つあると思います。知らないでいるという権利を行使したい、知らないでいたいという人がいてもよいかもしれない。

それでもやっぱり知ってしまうことがあるかもしれないし、そのときに、その人たちをどう守っていくか、どう支えていくかというようなことは、やはり考えなければいけないでしょうね。

加藤:

松原さん、どうですか。特に、先ほど言われた、見方を変えてくれる科学というのと、今、個人の問題としてのゲノム解析研究というのは、ちょっと違う次元なんですが。

松原:

まず、先ほどの「見方を変えてくれる」という側面については、例えば、近代科学の形成の歴史を見たときに、火あぶりになったりとか、投獄されたりとか、要するに、危険思想として社会とか文化に拒絶されるぐらいのものがあったということです。だから、尾関さんが、「危険な」というのは本当にそのとおりで、そういうレベルで知る、知らないというのがまずあります。

例えば、生物進化論が普及していくときに、それは人間の倫理に反すると思って反対した人たちがいたわけです。それはその人々にとっては切実なんですよ。非常に切実なんです。だから、今から見れば、進化論というのが多くの文化で受け入れられていますけれども、今だって、アメリカでも創造説をとる人もいて、いろいろ争いがあります。要するに、人々は科学的な事実を「知るべき」だ、人々に知らせることが大事だ、で済む話ではないんです。「知る」こと自体、すごく危ういことなんです。

個人にとってはなおさらです。「知らないでいる権利」というのがあります。皆さんご存じだと思いますが、ハンチントン病の研究に貢献したウェクスラーさんたちは、ご自身がハンチントン家系だとわかって、その研究にものすごく尽力しました。でも、ハンチントン病の遺伝子を受け継いでいるかもしれない彼女たちは、「知らないでいる権利」という考え方を最終的に提唱するわけです。その微妙さということを、よく考えなくちゃいけないと思うんです。

例えば、ある病院で、特に重い障害や病気でもなく、ちょっとした体の不調で来院した人が、実は、その不調と関連する非常に珍しい遺伝的な変異をもっていたとする。研究者は、ゲノム学的な関心からその人の遺伝子研究をしたいんです。たけど、その患者さんにすれば、「遺伝」の話になるなんて到底思っていないし、障害だとも思っていない。ただちょっと具合が悪くて病院に来ただけで、実際、対症療法でやりすごせる程度の軽いものだけど、今やゲノム研究を病院の勤務医も手がけるようになっていて、このケースは、ヒトの変異として面白いから研究したいと思う。その人に対して、どうやって「研究させてください」と言うかということです。

これは、既に病気の家系で発症前に人が、遺伝情報を知る、知らない、という問題よりもっと前の話。結局、ヒトをゲノム研究の対象にするときに、こういう局面が出てくるわけです。例えばオタクな私が、その患者さんの立場だったら、面白い、自分は研究に協力してもいいと思うかもしれませんが、そういうオタクな感性とは全然別の価値観で生きている人たちにとっては、その世界を崩すことになるかもしれない。研究者として医学の世界で一所懸命に誠実に研究している人たちがおられる、それはすごく大事なことなんだけれども、その研究に被験者としてかかわる生身の人というのは、全然別の世界で生きている、ということを忘れてはいけないと思います。

私は、先ほど、「非日常性は面白い」と言ったけれども、それは私みたいな立場の者だからそう言える、当面、自分自身の生活を脅かされないような局面だから気楽に言えるというところがあるわけで、まさに医療現場で、自分の遺伝情報を知る、知らない、という判断を迫られたら、また全然別の次元の話になると思います。また、自然科学とは違う、医療だとか、福祉とか、病院だとか、生命科学者の研究のシステムとか、そういったすごく複雑な要素がかかわってくるでしょう。

だから、「知る」、「知らない」の是非を一般論として語るのではなく、やはりどういう局面で、どういう人に対して「知ること」が求められるのかということを、すごく丁寧に見ていかなくてはならないのではないかと思います。

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尾関:

今、松原さんが例に挙げられたナンシー・ウェクスラー、これはDNAを発見したワトソン、クリックのJ・ワトソンが『DNA』(共著者A・ベリー、青木薫訳)という本の中で紹介しているんです。それをちょっとここに、たまたま資料として持ってきたので、読み上げます。そのナンシー・ウェクスラー、自分がハンチントン病であるかどうかを知りたくないと思って、遺伝子診断を受けないと決めたナンシー・ウェクスラーについて、ワトソンらは「五分五分の賭けの真実を知るよりは、大きな不確実性の中で生きようとしているのだ。肉体と精神が蝕まれる病気をもつ確率が五割というこの状況が、今日の精力的な彼女を形づくっているのかもしれない」と書いているわけです。つまり、あえて知らないでいるという選択肢を選んだ人には、そういう1つの世界観というか、人生観があるわけで、やはりそういう生き方も、また認めていくというような、なにか少し幅広い考え方をもっていかないといけないのではないかなと私は思います。

加藤:

ありがとうございます。辻さん、どうですか。森さん、どうぞ。

森:

ちょっと一言。いくつか、こんな私でも、皆さんのお話を聞いているといろいろ感じることがあったんですが、文化系、理科系を問わず、大学1年生のクラスを持ったときのことを申し上げたときに、そんなに単純な言い方はしていないんです。あえて辻さんと言わせていただきますが、辻さんが言われたように、いわゆるグレーゾーン、将来発病する可能性は50%、そうじゃない可能性が50%の場合もあるということを、一応いろいろ知らせた上で聞いているんです。学生に聞いたところ、50%の確率は発病しない可能性があるんだから、人生楽しく生きようよ。だから、50%の確率で発病するということを知っていても、僕は、私は大丈夫である。あるいは、発病しちゃったら、まあそのときはそのときで、そうかなと思うという人と、50%の確率で発病するかもしれないということを、ずーっと考えながら人生を生きるのは嫌だと。そういうことです。

だから、その50%をどういうふうに見るかというか、それは人間の価値観というか、人生観というか、そこなんですよ。すごい、絶対に発病するとか、そんな単純なことではなくて、もう18歳にもなれば、かなり複雑なことは考えていて、自分の意見もはっきり持っています。ということが、1つちょっと補足説明のような形です。

あとは、辻さんのお話を聞いていたときに、何をもって健常者というかという問題をすごく感じるんです。私がアメリカにいたときに感じたことなんですけれども、あんまり具体的なことは言いたくないんですが、「neurologist」というのは日本語では何というんですか。

辻:

神経内科医です。

加藤:

そこにおられます。

森:

ニューロロジスト(neurologist)の方がいて、ちょうどマスキュラー・ジストロフィー(muscular dystrophy)、筋ジストロフィー症の遺伝子がわかったというようなころにアメリカに留学していたんです。

それで、その方も、女の先生というか、アキュート(acute)で、何歳、もう小学生というか、それで最後は心臓がだめになってお亡くなりになる方もいらっしゃいますが、ベーカー症候群、ベーカー・シンドロームというのがあって、いわゆる世代を残し、60歳、70歳になられて、何となく体がおかしくなるとかいう、遺伝子のそういうグレーディエント(gradient)というか、範囲がありますよね。それで、ある神経内科医の方は、いわゆる健常者だと思って、健常者と自分が診ている患者さんを何人か、DNAを比べたわけです。ジストロフィーがわかる前だと思います。探そうとしていたときです。(ジストロフィーが)わかったので、そのデータを見てみたという感じなんですけれども、そのデータを集めて。

そうしたら、(ジストロフィーは)大丈夫だという人は、ベーカー・シンドロームになる。今は、例えば30代、しかし、60代になると車椅子になる可能性は非常に高いという人が出てきたんです。実際、それはもう私もそばにいて実験しているのを見ていたんですけれども、お医者さんとして、その人は非常に悩んでいました。

加藤:

言うか言わないか、伝えるか伝えないか?

森:

要するに、コントロールとして。実験でいうところのコントロールです。ノーマルとしてDNAをもらって。

加藤:

(ノーマルとしてDNAを)いただいていたのに、実は(異常が)見つかっちゃったという。

森:

そうです。今はOKなんです。後々、人生の後半になってから発病して車椅子になる可能性が非常に高い。そういう場合に、何をもって健常者というかということなんですよ。DNAのことがわかってから、「でも、健常者っているの?」ということになる。そのへんが、思い出したというか、そういう場面というのは非常に多くて。それはどういうふうにお考えなんでしょうか。

加藤:

辻さん、ちょっと全体を受けてくれませんか。3人が発言されましたが。

辻:

少し論点を整理したほうがいいと思うんです。1つは、病気の原因をいかに明らかにして、いかに治療法を確立し、あるいは予防法を確立していくかという、そういう大きな流れというのがありますね。その過程における研究の内容はどうあるべきかという問題が1つあるし、それから、もう1つは、今度は逆に、いろんなことがわかってきて、遺伝子レベルでわかってきて、それを実際の診療の場で診断として提供するかどうかという問題がありますよね。まずこう2つに分けることができる。

さっき森さんがおっしゃったのは、研究の場において、実はそういうゲノム解析研究で、健常者として参加いただいた方の中に、研究が進むことによって、思わぬ病気に関連する情報というのが得られる可能性があって、それに対してどう対処すべきかという、また別な問題があるんです。

こういう場になると、常に診療の場で診断としてそれをどう使うかというところに議論が集中するんです。つまり、治療法が十分まだない段階で、病気を予見できるような、そういう診断法をどういうふうに扱うべきか。そのときに、「知る権利」、「知らない権利」、「知らないでいる権利」をどう扱うか、どうそれを考えるかという問題がある。これも非常に大事な問題で、これはどちらかというと、僕ら的には、診療の場に近い、あるいは、診療の場における問題で、非常に深刻というか、重要な問題なんです。

ただ、ゲノム研究全体を考えたとき、あるいは、ゲノム医学研究全体を考えたときに、これだけは問題ではないというところがあって、一方では、やっぱり病気を克服するためには、いかに研究を適切に進展させて、研究を発達させるかという問題があって、そこのところが、実は日本ではなかなか十分でないかもしれない。マスコミの方々がいろんな問題点を指摘されるわけで、それがトータルとしては、何となくゲノム研究に対して、国民全体が、少し腰が引けているといいますか、大規模ゲノム研究に参加することに関して、少し腰が引けるところがあるんじゃないか。僕はそこが非常に大きな問題だと思っていて、そこはやはりみんなでスクラムを組んで、そこにコミットしないと、病気は克服できない状況になってくる。

つまり、1人の天才的な研究者がいれば全部わかるからといったらそれではなくて、やっぱり皆さんが参加する形で、大規模な、予算も大規模だし、サンプル数とかそういったものも大規模だし、かかわる職種も大規模ですけれども、そういった研究を展開しなければ、実はもう病気の研究というのはなかなか進まないというところがあります。そこをどう考えるかという、2つの問題を大きく分けて、診療の場においてどう応用するかという問題と、それから、研究をどう展開するかという問題。そこにも、さっき森さんが指摘したような問題というのは包含されているわけですけれども、それを分けて議論していかないと、なかなか……。

加藤:

本当に、今、社会的議論の縮図をわれわれが再現しているようなところがあって、研究の広がりと、単なる有用性ではないという議論をずーっと最初やっていたのに、急にずーっと臨床の話になって、それが大事でないわけではなく、大事なんだけど、何かそこに一気にクローズアップされてしまうところが……。尾関さん、できるんですかね。朝日新聞に、この、ずばっと言っちゃいましたけど。絶対に最後の議論のところが紙面に載るんじゃないかという。

尾関:

いや、まあそうでもないでしょうね。ちょっと今、森さんが言われた、健常者とは何か、という話をまずちょっとしたいのですけれど、さきほどの対角線の図がありますよね。結局、ああいう、遺伝要因と環境要因の配分が連続的であるということがだんだんとわかってくるということは、やはりだれもがみな、ある意味で障害者であり、ある意味で健常者である、とわかってきたということだと思うんですね。これは人類にとって、DNAがわかってきたことの収穫ではないかという気がします。つまり、知るということは、それほど悪いことじゃなくて、すごくいいことがたくさんあるということですよね。

今の、辻さんがおっしゃられていることもそうでして、やはりわれわれが、病気というものがいったいどうやって発症していくのか、どういう因子によって人間は病気にかかるのかを知ること自体は、たぶんとても大切なことであろうと。それをボランタリー・ベースで、いろんな人たちが1人でも多く参加して協力していくということ自体は、とてもいいことだろう、とは考えます。

ただ、その突きつめたところで、私がきょう一番強調したかったのは、世の中全体でもっと考えましょうよ、と。思想にもかかわりますよ。憲法だってかかわるかもしれませんよ、と言ったのは、やっぱり世の中全体が、もっと本当にそのことを深刻に考えて、つまり、今の一番極端な例でいうと、加藤さんがさきほど言われたような、決定的な遺伝病の因子をもっている人にどう向き合うんだとか、そういう問題、すごく重たい問題を、われわれはきちんと真正面から考えなきゃいけない。そういう局面が出てくると。そのことをあいまいにして、「いや、科学が発展するのはいいですよ」と言ってみたり、一方で「科学の暴走を防ぎましょう」と言ってみたりするというのは、やめたほうがいいでしょうと。そういうことかなと思います。

加藤:

そうですね。そろそろフロアに開きたい。どうぞ。

辻:

もう一言、今日はディベートになってもいいかと思いますので、少し反論ではなくて、ちょっと指摘したいと思います。これは、ちょっと誤解を招く言い方かもしれないのですが、日本全体を考えたときに、こういう医学研究、あるいは医療の発展なり成果を受けたいということは、皆さん、共通してあると思うんです。だけど、その成果を得るためには、やっぱりみんながコミットして、みんなが協力し合って何かをしないといかないんですよと。そこは、僕は日本では欠けているんじゃないかということを常に感じるんです。やっぱりそういったものを進めるためには、ある程度の負担をしてでも、みんなでがんばって、協力し合って、努力することは必要であって、そこをやらないと、実は成果は得られないわけです。そういうことなしに、成果だけは享受するということではいけないというふうに思うわけですけれども、いかがでしょうか。

松原:

私が口を挟んでよろしいですか。

加藤:

はい、じゃ、あと2分やって、それで開きの最後と。

松原:

辻さんのおっしゃっていることはよくわかります。ゲノムと言わなくても、そもそも医療現場で行使されるいろんな治療というのは、その前のあらゆる経験が反映されているわけです。要するに、患者さんのデータなり、失敗例なり、成功例なり。その延長だと思うんです。だけど、今は医療消費者という意識が患者さんに強くて、自分の得になるか、損になるかというだけで判断する。良質な医療を受けられるのは、実は、その前の営々たる、ほかの患者さんたちのいろいろなデータが積み重ねられているからなんだということが、ちゃんと認識されていないと思うんです。バイオ・バンクも、基本的にはそういう話になってきます。

ただ、一方で、では、その積み重ねられてきた情報が、過去にどうやって採られてきたかというと、本人に断り無くというのが昔は多かったし、本人に大きな被害を与えるような「人体実験」からということもあった。被験者保護の歴史とか、患者保護の歴史をみると、その手の問題があまたあったことがわかっていて、それへの反省で、1970年代以降、インフォームド・コンセントなどの、被験者保護のルールが確立されてきたわけです。

今でも、腎臓移植の問題などが取りざたされていますよね。だから、基本的には、医学研究への信頼とか意義を何が支えてくれるのかについてトータルに考えなくちゃだめで、それは、研究者としていかに誠実かだけに頼るわけにいかない。実際に検体を採るのは、小さな病院の主治医だったりするわけです。大きなプロジェクトの中の末端でそういうことが行われている。それをトータルに見て、患者さんがどういう現場で、どういう影響を受けるのかというところから見て行かなくてはいけない。大変迂遠な話ですが、医学研究が大事だ、大事だと唱えるだけではなくて、今までの医学の歴史の成り立ちをわきまえて進めて行かなくてはいけないのではないか。今は、そういった努力が少しずつなされてきているということだとは思います。

加藤:

さあ、フロアに開きます。一応の柱はありつつ議論をしてきたつもりですが、いろんな話題に行っています。どこからでもけっこうですし、気楽に質問なり意見なり、ただし、一言お願いします。演説はしないでください。ストレートで失礼な言い方なんですが。

フロアA:

演説はいたしません。有用性の話と非日常の話がさっき出てきたんですけれども、これもやっぱりグラデーションというか、連続性がある中で、科学的なことを実用化に結びつけることをどうしても求められるようになっているからだという気がしました。それが1つです。

それから、DNAは思想にかかわるという。何を申し上げたいかというと、言葉の定義をはっきりしないと、議論が先ほどのような形で、非常に混乱していくんじゃないか。例えば、ゲノムは憲法にかかわる、DNAは憲法にかかわる、遺伝子はかかわる、遺伝情報は憲法にかかわる、なんです。どれを聞かれても、実は使えるんです。ただし、先ほどの「知る権利」「知らないでいる権利」ということに関しては、例えば、ハンチントン病の例をとった場合にはこういうことだというふうなプレゼンテーションがないと、たぶんここに来ている研究者の方々は理解したとしても、多くの一般の市民は何を伝えられているのかがわからない。それを理解した構成がやっぱり必要なんじゃないかなという気がいたしました。

それと、これはちょっと蛇足ですけれども、ゲノム・マップは、ちょっと一般の人に見せる機会があって、あれはとってもいいなと言っていただいて、僕もとってもうれしかったんですが、それが1つです。それで、ゲノム・マップと同じように、課題マップがあってもいいんじゃないかなと。ゲノム科学を進めるための課題がある。倫理的な問題での課題がある。いずれそのマップを見て、どこの議論をしているのかということを明らかにして議論をしないと、どうしても議論が散漫になる機会が多いんじゃないかなというふうに感じておりますので、どこかでそんな検討をしていただければいいなと思います。

加藤:

ありがとうございます。ほかにございませんでしょうか。はい、真ん中の方、どうぞ。

フロアB:

最後の松原さんの被験者の実験の話なんですけれども、辻さんのお気持ちはわかるんですが、そう言われるとますます腰が引けちゃうなという感じが(します)。要するに、自分が実験材料になるかもということを、大規模化、最終的には被験者のところまで持っていったら、やっぱり必要になると。その必要性はわかるけれども、自分がその材料になるのは(いやだ)という感覚のほうが普通というか、松原さんのように面白いと思って参加したくなるセンスというのは、やっぱり現時点ではちょっと普通ではないと思うんですが。

それを変えていくにはというか、松原さんが妊娠されたときのお話で、自分のことで面白いと思えると。科学者というか、研究者は、対象を見て面白いと思うわけです。自ら、自分のことで面白いと思えるように被験者となる患者なりがなるには、何が必要なんだろうかと。伝えてもらうんではなくて、自ら面白いと思えるにはというか、そのへんは、例えば、辻さんなんかはどう考えておられるのかと……。

辻:

ご指摘の点が最も大切なところだと思います。だから、こちらとしても、情報発信というのがまだまだ足りないというか、ご理解いただくところがまだ十分でないかもしれないし、僕もどうやったらそれがうまくできるかというのは、全部答えを持っているわけじゃありませんけど、ご指摘のところはまさにポイントを突いているというふうに思います。

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加藤:

松原さん、いかがですか。

松原:

被験者で「面白い」というのは、あんまりないかもしれないなと思うんですが(笑)、ただ、結局、自分の治療に直接かかわらなくても、われわれが享受する医療の質とか医学の質、それを上げていく、それこそタニマチですよね、応援をするというような気持ちで参加するということはあるんじゃないかと思うんです。ただ、現実問題として医学研究だけがどうのというのでなく、一般的に個人情報の保護という観点から言えば、パソコンにウィニーを入れている担当者が個人情報をネットに流しちゃうという事態が、ぼろぼろ生じているわけですね。このようなことがおこらないよう、ゲノム研究ではかなりルールが厳しくなっていますが。だから、医学的な意義があるとしても、実際、運営していくときに、やはりきちっとした、何かあっても説明でき対応できる体制をつくらなくちゃいけないというのが、あると思います。

加藤:

私から1つ言いたいんですけれども、詳しい話はできないんですが、私がかかわっている国際的なゲノムの研究のELSI(倫理的・法的・社会的課題)というんですか、その場において、善くも悪くもという言い方をしちゃいますけれども、ジェネティック・ソリダリティー(genetic solidarity)といって、「遺伝的連帯」という言葉が最近使われます。批判も出ますけれども、ポジティブに言えば、私たちはゲノムは共通のものなんです。つながっているので、自分が研究に参加するということは、自分の子孫、自分の家族のゲノムが研究されるということ。それをわーっと広げていくと、要するに、人類全体が理解されていくということにつながるんだと、これは、ゲノムであるからこそ非常に強調し得るポイントなので、「連帯」という言葉はけっこう出てきているので、私は、それは1つ大事だとは思っています。ただ、日本社会でそれが受け入れられるかどうかは……。どうぞ、はい。

尾関:

まさに今、「連帯」という言葉がありましたけれども、この問題は、パブリック・ベネフィット(public benefit)といいますか、公益性をどれだけ考えるかだと思うんです。私が今日、ゲノムをリベラルに考えたいと言ったのは、そこに1つ理由があるんです。まず公益性ということを、もう少しわれわれは考えなきゃいけない。われわれがお医者さんに行くときには、自分の体を治してくださいということで行くけれど、それだけじゃなくて、みんなの健康のことも考えようという視点は重要だろうと思うんです。

その意味で、私は、辻さんのおっしゃられていることに共感します。ただ、そのパブリック・ベネフィットを究極まで突きつめちゃうと、「公共のためには、あなたの権利も犠牲にしなさい」という考えを強める結果になりかねず、それは危ないということもあるわけで、だから、私はリベラル、リベラルと言っているわけです。そこをなんとかもう少し、みんな1人1人の権利を守りながら、もうちょっと、パブリック・ベネフィットということを考えようじゃないかと。 そういう流れができたならば、この問題は理想的な形で解決していくだろうと思います。

松原:

あと、ジェネティック・ソリダリティーまで言わなくてもいいんじゃないかなと。要するに、そう怖くないよとか、意義を強調するあまり、やり過ぎ、言い過ぎ、価値づけ過ぎということが起こりがちなのですが、けっこう研究の実態とずれたりすることがあるわけです。だから、このレベルの情報だったらば、多少リスクはあるけれども、「まあいいんじゃない」というような、その「ほどほど感」というんですか、それは、実際いろいろ現場に落とし込んでいくときには大事じゃないかなと思います。

加藤:

辻さん、どうですか。

辻:

研究現場のほうからちょっと発言しますと、今は研究計画というのは、すべて倫理審査委員会といいますか、研究倫理審査委員会に提出されて、ある意味で、やるべきプロジェクトというのは全部決まっているんです。ですから、非常に限られた、ある設定の研究をやります。それは全部審査を受けて、承認を受けているとなります。それをはみ出すことは一切していないですし、それから、もちろん個人情報とかについては、非常に厳格に守るということは、何段階かのそういう仕組みがつくられているということになりますから、決して決して、その研究者が自分の興味でいろんなことをやってしまうというようなことはないわけなんです。そこのところは、だけど、もっともっと十分な説明で理解いただくということは、まず必要だと思いますけど。

加藤:

どうですか、かなり時間が来ているんですけど、どうぞ、もうちょっとだけ時間を使わせてください。どうしてもという方は、出ていただいてけっこうです。

フロアC:

今の松原先生のお話の、有用性と驚くようなすばらしい発見というところが非常に僕は好きで、今の「ほどほど感」というところが良かったなと思うんです。要するに、本当にすごい発見とか大発見というのは、すごく有用だと思うんです。例えば、ヘリコバクター・ピロリが発見されたことによって、これで今まで胃潰瘍でいろいろ悩んでいた人が、みんな治っているわけです。1週間、抗菌剤を飲むだけで治っちゃうという、やっぱり本当にすごいノーベル賞級の発見というのは、これはすごく有用だと思うんです。

問題なのは、いわゆる有用性というときに、うそっぽい有用性が多過ぎるというところだと思うんです。今、ほどほど感がない。新しい、何かガンに関連する遺伝子が見つかりました。これよって、ガンの治療が進むでしょうって、おいおい、そこまで言っていいのかよ、みたいなところがあるわけです。

だから、そこらへんのところの瀬踏みをもっとしっかりしていかないと、社会から見放されちゃうというか、有用、有用といっているわりに、役に立たないんじゃないかと言われちゃうというところかあるんじゃないかなと思いました。

松原:

ちょっといいですか。私も科研の申請書を書くときに、まあ風呂敷を広げますよ。要するに、研究費を獲得するための提示の場面というんですか、コンテクスト(context)でそうならざるを得ないというところがあるわけです。ただ、すべてにおいて研究費申請をするときのような、強力なアピールをする必要は全然ないわけです。いろいろな語り方をすればいい。プロジェクトの立場上、こんなことはとても言えないなんて言わずに、森さんのように、果敢に、ストレートに、率直に語ること。私はそれがやっぱり科学者の良さだと思うので、本当のところ、この程度だよとか、まだまだだね、とか、そんなことが普通の人に聞こえるような、そういう場というのを、あるいは、媒体というのを多様に持っていく。インターネットがもしかしたらそういうものの1つになるかもしれませんけれども、それが大切だと思います。

加藤: そうですね。ゲノム4領域のホームページに、いっぱい研究紹介も入っていますので、ぜひ見ていただきたい。辻さん、どうぞ。
辻:

これはマスコミの方に対するコメントなんですけど、ほどほど感で話をすると、「それじゃあ、記事にならないんだよね」っていうふうにおっしゃいます(笑)。

加藤:

そうですよね。「ゲノムひろば」はなかなかメディアに載らない。森さんもそう思います?

森:

同感です。先ほど、尾関さんが言われたように、とにかくどこかの記者の方は、もう許してくれないんですよ。「今の森先生のお話では、記事が書けないので」ということで、とにかく有用性、「それでは納得できません」とか言って、とにかく、自分が思っているところに持っていこうとする人が、やっぱり記者として多いと思います。それは何とかしてもらって、ほどほど感でも、たぶん一般の方は理解するんではないかと思うんです。それはメディアの方の尽力も多いかもしれませんけれども。

尾関:

それは、ただ、ちょっと、あまり賢くない記者が行ったというだけのことじゃないかと私は思うんですけれど。要するに、かりに「有用性」という座標軸があるとして、それはがんが治りますとか、そういう有用性じゃない有用性だってあるんです。

きょうお話ししている話、たとえば、このことを知ってしまったら、だれかが絶望しちゃうんじゃないかとかどうかとかいうようなことは、単なる知的好奇心とは違ったレベルの話ですね。

こういう物差しを全部、この座標軸に取り込んで、この記事が一般の読者にどういうインパクトを与えるだろうかと考えたときに、これは大変インパクトのある「有用」な記事であるという視点が別のところから出てくるんです。それを、ただ、がんが治りますというところしか見ない、そういう物差しでしか見ないとすれば、それは非常に愚かなことですね。 「有用性」という言葉を、 すべて「がんが治る」というようなことに帰してしまうのは間違いで、もう少し複雑な座標軸であるというふうにとらえれば、有用な話自体はそれほど悪いことではないでしょう。私自身は、どちらかというと非日常性のほうで記事を書きたい科学記者ですけれど、しかし、やはり有用性というのも重要なポイントであるというふうに思っています。

加藤:

ありがとうございます。ちょっと不手際で、最後、フロアに開く時間がちょっと短くなってしまっているんですが、どうしても何かお聞きになりたいという方はおられますか。

じゃ、そろそろ、まとめに入らせていただきます。できればパネリストに、最後、感想を一言だけ述べていただこうと思っています。私としては、あっちへ行ったりこっちへ行ったりの議論だったと、たぶんかなりの人が思っていると思うんですけれども、これは、それをやりたかったんですという開き直りをします。というのは、やっぱり皆さん、いろんな立場の方がここへ来られるので、特に「ゲノムひろば」はそうなんです。それで、いろんなものを見ていただきます。いつまで経っても答えが出ないじゃないかとおっしゃるかもしれないけれども、私としては、ここの場は何のためにあるかというと、改めて、現在の時点におけるゲノム研究と社会の問題を、再び皆さんに考えていただくための素材を提供する場だと。こういう人たちは、こういうことを今考えていますよ、というのを知っていただく。だから、あっちへ行ったりこっちへ行ったりすることが大事で、ずれがあることが大事だと思ってやっているので、そのへんは、そういうふうに受け止めていただければありがたいなと思っています。押しつけるつもりはないですけれども。

それで、1点だけまとめを言いますと、やっぱり使わせていだたきますが、尾関さんの「リベラル」という言葉を私は今日のまとめにしたいんです。しかも、議論したお蔭で見えたことは、単に何か学者的に議論をするリベラル、議論ができるリベラルという問題だけではなく、たぶん社会の中で、自分が試料を提供するかしないか、血液を提供するかしないか、そばに遺伝的な疾患の方がおられたときに、そういう方々と自分はどうかかわっていくかという、アクションを含めたリベラルな社会、リベラルが社会の中にどういうふうに広げられるかという、そのようなところが今日の議論の1つのポイントなのではないかなと、これは個人的まとめだと思ってください。いろんなことを受け止めていただければありがたいんですけれども、(そう)思いました。

それで、最後、4人の(パネリストに)、こちらから、すみません、1分ずつ感想を述べてください。お願いします。

尾関:

私がきょう、一番励まされたのは、夢とロマンの科学ジャーナリズムじゃだめだよということを言ったら、それに加藤さんが共感してくださったことです。 つまり、今のリベラルの話じゃないですけど、このゲノムというのは、やっぱり、そういう夢とロマンで能天気に考えていればよい話ではなくて、考えれば考えるほど、私たちが社会で生きていくうえで覚悟を決めていかなきゃいけない部分があるテーマです。さっきの遺伝病の話なんか、まさにそうだと思うんですけれども、そのことをもう少し、みんなで考えましょうと。研究者の人たちじゃなくて、みんなで考えましょうと。その中で、人と人が傷つけ合わないような社会にしていく方向性を見いだせたらばと。 私がリベラルに託した意味はそこにある、ということを感じました。そのことの端緒となる議論ができたと思って、大変にうれしく思っています。ありがとうございました。

加藤:

どうもありがとうございます。松原さん。

松原:

はい。いろいろ考えさせられましたし、フロアの方からも触発されました。最後にひとつ言っておきたいのは、今ここで話しているようなこととか、ここに集まっている人たちは、話を共有できる背景がある。私はハンセン病の元患者の皆さんに調査にご協力いただいたことがあって、その中で、遠い親戚にそういう病気の人がいると、いまだに、若い姪っこの結婚に差し障るみたいな話を聞くわけです。例えば、同じ病名の疾患でも、地域格差といっていいのか、受け止め方の地域差がすごくある、というのが実感です。今この場での病気や遺伝の扱い方は、たぶんすごく都会的で、すごくリベラル。だけれども、1人1人の患者さんがいる場所とか、家族がいる場所って、往々にしてそうじゃない。そういう要素をどうやって、実際に人を相手にした研究といったときに入れ込むかというのは、絶対忘れてはいけないことですね。生死にかかわるというようなところがあります。

加藤:

ありがとうございます。森さん、どうぞ。

森:

ベーシック・サイエンスの立場からということだったんですけれども、それはそれとして、非日常性ということをわかってくださっている、夢とロマンという、私たちが思っている夢とロマンというのは違うものだということがわかってくださっているということは、とても何かうれしい気持ちだったんです。それとは別で、ゲノム医療というほうに、やっばりある種、9割方意見がそっちへ行っちゃいますよね。それは非常に重要な問題で、患者さんは目の前にいて、それを目の前にしたお医者さんが目の前にいるという。そういうことというのは非常に切実なことで、そこのことで、ある種、よもやま話でOKだということでお話をいただいたんですけれども、やっぱりそこがすごく重要で、難しいけれども、考えていかなきゃいけない。確かにそうだと思います。格差があるというのは、ものすごくあると思います。

加藤:

ありがとうございます。辻さん、どうぞ。

辻:

診療あるいは医学研究の立場からは、古来、病気を少しでも良くしたい。良く治療できる、そういうふうになりたい、そういうことで、それ一筋で発展してきているという中にどっぷりいる人間なわけですが、ちょっと研究といっても、夢とロマンというお話がいっぱい出ましたけれども、そういう視点とはまたちょっと違う視点で見ているというところがございます。もう目的が非常にはっきりしていて、病気を少しでも良くできればというところがあって、だから、ただ単にいろんなことに興味があるという、そういうベーシック・サイエンスのまた興味とは全然違うところでいるんです。今日、フロアからもだいぶ意見をいただきましたけど、一般の方々がどういうふうにこれを捉えるかということは、非常に貴重な意見をいただきましたし、そこをうまく、今後、どう発展させていくかというところで大変参考になりました。ありがとうございました。

加藤:

どうもありがとうございました。社会的に非常に大きな医学、医療の問題を考える際にも、やはりこの「ゲノムひろば」で見ていただいているような研究の広がり、さまざまな生物を使った研究、そういうものが確実につながっているので、そういうところも踏まえた上での議論ができればいいなと思って、こういう、あえて複数のテーマを組み合わせた議論と、それから、そういう場、8階のさまざまな展示を含めた場を、私はまずはつくっています。

もちろん、これに加えて、医療の問題、個別の問題に対する議論の場というのは、いろんな形でつくられていくべきものだと思っています。またそういう場所で、この前の4人の方々と、それから、私ともお会いしていだたければと思いますし、一緒に議論を進めていくということで、ぜひこれからもよろしくお願いいたします。

今日は、すみません、不手際で、少し長くなりましたけれども、長時間お付き合いいただきましてありがとうございました。最後に、4人のパネリストに拍手を送って終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
(拍手)

※ゲノム談議は、ゲノム研究の社会的・時代的意義について、ざっくばらんに議論することを目的に開催したものです。内容について、厳密な意味では科学的に正確でない部分や、表現が偏っている部分がある可能性がありますが、当日の議論をそのまま紹介しています。ご了承ください。

 

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